安心も足枷も

息子が習い事から帰宅する20分前。

夕寝から起きてぼんやりリビングに目をやると、窓の向こうが魔物に取り憑かれたような色をしている。 気がした。

寝起きの低血圧ニモマケズ、突然秋が深まった可能性も捨て去れず、魔物色に歩みを進める。

私と窓を隔てるレースカーテンを取り除くと、

Oh!AME!! なんということでしょう。
息子を迎えに行かなくちゃ!

余裕を持った時間に慌てて家を飛び出て、突然光り出す空に怯えながら息子を待つことに。

今日は、そんな夕立の中でふと思い出したこと。

些細なことをかき集めて

私の子供時代も、突然の大雨にはこうして祖父母が迎えに来てくれたんだった。

祖母は車が乗れない(自転車も乗れない)から、雨の中、いつも歩いて迎えにきてくれた。

「傘を持たない子供の迎えに行く。」

こんな、“些細で贅沢な当たり前”によって、人間の「安心感の土台」や「愛されている確信」ってものは作られていくんだと思う。

一方で、同じ“些細なこと”でも、知らないうちに身体の奥深くまでこびりついて、気づいたら人生の足枷となっていくものもある。

安心感も足枷も、始まりはどちらも他人の存在からもたらされるもの。
それが生きることの面白さであり 厄介さであり 幸せであり 絶望な気がする。

ただ、 安心感を増やしていくこと、足枷を外していくことは「私」にもできること。

身から離れた足枷は、筋トレに使えるかもしれないし、エンターテインメントに使えるかもしれないし、漬物石にもできるかもしれないけど、振り回して誰かを傷つけることもできるし、別の誰かの足にはめることもできる。

“些細なこと”をかき集めて、どんな人生を送ろうか。

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この記事を書いた人

ちぃ 島根出身 兵庫県在住 91年生まれ

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