『インサイド・ヘッド』と元ホストの承認欲求と魂の叫び

7歳の息子が、映画『インサイド・ヘッド』を見たいと言った。

ディズニープラスで見せてあげたものの、彼の心にはハマらなかったようで、15分程で視聴終了。
その後、テレビ番組の『DASH村』を真剣に見ている姿がなんだか面白かった。

そんな光景を見つめているうちに、そういえば、元彼の中に『インサイド・ヘッド』が大好きだという奴がいたことを思い出した。

大嘘つきでとんでもねーチャラ男だったそいつ。
ある日の会話の中で

「1番好きな映画は『インサイド・ヘッド』!!見たことないの!?めっちゃ泣けるから見て!!!」

と言い出した事があった。

目次

感性と噛み合わない生き様に噛み合う私

当時はその言葉を聞きながら、「この人とインサイドヘッドのどこに親和性があるんだろう…?」 とちょっと腑に落ちない気持ちだったけれど、 今なら何が腑に落ちなかったのか分かる。
腑に落ちなかった気持ちのさらに奥底が分かる。

『インサイド・ヘッド』にボロ泣き感動するような心でその人間性って、お前の脳内は「オレ」「アイサレタイ」だけで埋め尽くされてるって証明やんな。 自己愛強すぎ。けっ。

ということだ。
当時は上手く言葉にできなかったけれど、今なら「承認欲求激強男」というラベルで丸めてポイしてしまえる懐かし話。

ただ、そんな奴に引っかかった私もまた、「自己肯定感が低いんです」というプラカードを掲げながら、自己愛が強く、承認欲求が強く、寂しさに飲み込まれている人間だったのだ。

そう、モンスター同士の運命の出会い。

だけど、ホストの経験もあったらしいその彼は、表面的な女性の扱い方には長けていて、案外良い思いもさせてもらった。
その点と、「また新しい人間性を体感できた」という意味では、私の人生で出会えて良かった人のひとり。

ただ、もしも未だに彼の生き方が変わっていないのならば。
友達だけは嫌々置いといてあげるから、今後一切女性から相手にされない余生を送りますように。と願わずにはいられない。

承認欲求は悪なのか

さてさて。 「承認欲求」って聞くと、みんなどんなイメージを持つのかな?

私は長い間、

・持っていると恥ずかしいもの

・なくさないといけないもの

・持っていると人に迷惑をかけるもの

・自己中

・自分の中から早く無くなってほしいもの

…などなどマイナスなイメージを持っていた。

だけど最近思うのは、承認欲求なしで、誰かに響く何かを伝えるなんてできないなってこと。

こうして書くこともそうだし、喋ることでも、有形無形問わず作品を作ることもそう。

「私を見て」

「私の言葉を聞いて」

「私を褒めて」

「私を認めて」

「愛されたい」

もしかすると私が知らないだけで、世の中には承認欲求なしでものすごいメッセージを届けられる人もいるかものしれない。

だけど、自分に関して言えば、無理だな。
承認欲求が0だったら、わざわざこんなお金払ってサーバー借りて、時間かけて親指上下運動してないんだわ。
ブログを書いているのは目的・目標があっての事だけど、大大大前提の部分には、きっと承認欲求が潜んでいるはず。

そして、承!認!欲!求!という強いパワーとともに身体の芯から溢れる想いを書いているから、それが誰かの心まで届いて、私の書くものを好きだと言ってくれる人がいたり、感想をメッセージしてくれる人がいるんだと思う。

何ヶ月か前にふと「幸せ」の意味を調べて、「あれ、私、別に幸せにならなくていいのかも。」と思ったりしたんだけど、それはきっと、「承認欲求が欠乏した人生なんて、つまらない。」って事でもあったんだろう。

そして、私が心揺さぶられるものもまた、誰かの「承認欲求の塊」なんだと思う。 人々が「魂の叫び」と呼んでるものって、全部そうなんじゃないのかな。

「承認欲求」の美味しい調理方法

とは言え。

あまりに肥大化した承認欲求は、やっぱりちょっと、考えものだな、とも思う。

他人に多大な迷惑をかけることになるし(私は何度もやった)、何より自分自身がすごく苦しい。

そう、あのチャラ男も苦しかったのだ。
しかも、「これは今だから分かるアイツの気持ち。うるうる。」なんて事ではなく、当時から分かってたこと。
だって、本人から滲み出てたもん。 私からも、思いっきり滲み出てたんだろうな。え、もしかして今も?

自分の承認欲求は、どんな時に膨らんで、どんな時に萎むのか。
今日は、今は、どのくらいなのか。
あの時は、どのくらいだったのか。

適度に膨らんだ中身を放つ時、どの方向へ、どんな形にして発射させるのか。
何割は自分の体内で健康的に消滅させて、何割は健康的に世の中に向けるのか


程よい承認欲求に「誰かに楽しんでもらえるかな」「役に立てれば」「背中を押せたら」を乗せて社会に飛ばす。

そういう事をざっくりとでも考えたり把握する気持ちでいると、うま味のある承認欲求が出来上がる。

ただ、何年経っても「承認欲求の扱い方、さっきはちょっと失敗したかなー」って思うことは無くならないから、反省してさっさと切り替えて、引きずらないことも大事かも。
引きずりすぎると最果ては承認欲求モンスター再誕になるだけだしね。

何より何より、自分で自分の話をよく聞いてあげること、褒めてあげること、ねぎらって休ませてあげること。
きっとこれらが、すごく大事。 ノートに書いて自分とお喋りする習慣をつける、疲れたら横になったり寝る、そんなシンプルなことでできちゃうよ。
私も完璧にはできてないけれどね。

そして、これらをやっていたって、日々の出来事や体調やら、ちょっとしたことで、いとも簡単に「様々な可能性をはらんだ承認欲求」はまた作り出されるのだ。

だからまた、ノートに書くだのなんだのして、ある程度は自分の中で消化する。
そして、「ちょうど良い大きさ」になったところで「人にお見せできる形」にして世に放ち昇華させる。

これがここ何年かで分かってきた、私なりの承認欲求の調理方法。
えぐ味は処理、旨味はお届け。

そうは言っても「良い塩梅の承認欲求」を常備しておくってすごく難しくて、「あ、またミスった」って事だらけではある。 手を噛んでくる飼い犬のようだ。

だけど消えて無くなられてはきっと、平穏と引き換えに生きてる実感が薄れるんだろうし、誰かと強く共鳴し合うこともできないのかもしれない。

インサイドヘッドから話が広がったと思ったら、結局インサイドヘッドみたいなオチになったような?

ということは。 あなたの中に、私の中にある「感情」や「欲求」に、いらないものはひとつもないってことだよね。 「ショウニンヨッキュウ」、これからもよろしく!

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この記事を書いた人

ちぃ 島根出身 兵庫県在住 91年生まれ

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