朗らかおばさん、頑固おばさん

年齢を重ねるにつれ、昔よりは色んなことに寛容になった。
めでたし。

と終わりたいところだけど、同時に、昔はもっと寛容にいられたことにNoと思う・言うことも増えてしまった。

トータルで私は、「寛容朗らかおばさん」になっているのか、「不寛容頑固おばさん」になっているのか、どっちだろう!

目次

私の感性を守りたい

確実に分かっていることは、昔は寛容だったんじゃなくて

気が弱かっただけってこと。

気を遣いすぎていただけってこと。

他人の思い通りに動かなければならないと思っていただけで、

私の感情は取るに足らないものだと思っていただけで

正解をなぞろうと頑張っていただけで

自分の全てが間違っていると思っていただけで

私の心は真っ黒だから、この世で良い思いをしてはいけないと思っていただけってこと。

そんな私が、気付けば「自分の感性を守るためには、寛容(なふり)ばかりじゃいられない」って、良くも悪くも強気になっていることに気付いたのはここ最近。

この気持ちっていつから始まったっけなぁと考えると、「自分を本当に大切にしたい」と思ったからで、何でそんな事思ったかっていうと「生まれてきた我が子を大切にしたい」って思ったから。

メンタルが弱くて色んなことに我慢がならない、きっと死ぬまで寂しさや欠乏感を抱えながら生きていくしかない、子育て適正が無さすぎる…いや、生きる適正が無さすぎる私。

そんな私が我が子を健やかに育てる方法は唯一、「まずは自分を大切にすること」しかない。

「何よりもまず我が子が最優先」なんて生活、こんな私にできるわけがないんだから。

「何よりも私が最優先」をやりまくって、「いや、そこまで私優先じゃなくていいから笑。この子を優先してあげて笑。」って自分に思わせ続けるしか道はないのだ。

そして、「自分を大切にする」っていうのは言い換えると、これまでの人生の軌跡が詰まった「自分の“感性”を守る」っていうこと。

そのためには、もう寛容(なふり)ばかりじゃいられない。
納得のいかないことに身を切って寛容を差し出すんじゃなくて、自分の気難しさに寛容になるしかないのだ。
そう腹を括ったのが、息子が生後6か月の頃。

今では、自分を大切にできるようになってきたからこそ、以前よりも心に余裕ができて周囲に寛容になった部分と、「ここは絶対譲らねぇからな!」と逆に頑固になった部分が混在するようになってしまったわ。

一言でまとめると、ただの価値観の変化ってことなんだろうけど。

せめてもの願い

全ての人に好かれなくてもいいけど、ひとりぼっちになりたいわけじゃないし、温かさは分け合って感じ合いたい。

自分の偏った経験だけを信じ切って、融通の利かない険が立ったおばさんになりたいわけでもない。

できることなら誰かを嫌いになりたくないし、あわよくば嫌われたくもない。
だから「?」と思う他人とは、「お互いの世界に介入しない」という選択肢をとることもよくあるけれど、それも何処かで限界がある。

それに、「?」な人と一切関わりたくない、嫌いなのかと言うと、必ずしもそうとは限らない。

私は今後、この世の中をどう生き抜いていったらいいのだろう。

距離感

期待しないこと

お互いさま

助け合い

それぞれ生きる場所に置かれていること

あえての見ないふり…ってことが大事かしら?

今日を明日を生きる度に少しずつ新しい選択肢を増やして、千手観音のようにあの手この手を使って、世界や他人と愉快に関われるようになりたいものだわ。

そして、本当に本当に大切ないくつかのことだけしっかり抱えながら、オープンで寛容なおばあさんになっていきたいなぁ。

だけどそれって、もはや私ではない別の誰かになるしかない気もするんだよなぁ。
だって前にも似たようなテーマで書いてるしなぁ。

表向きだけは、なんとか朗らかおばあさんになりたいなぁ。

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この記事を書いた人

ちぃ 島根出身 兵庫県在住 91年生まれ

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